鎌倉に平泉があるらしいので行ってみた

鎌倉に行きたい一心で何かをでっち上げたようなタイトルになっていますが、いえいえ、あったんですよ。

NAGINOTE de preview

ナギノートでプレビュー

鶴岡八幡の奥、二階堂エリアに「鎌倉幕府初代・源頼朝が奥州征伐に行った際に感激したから」とか、「弟義経や藤原泰衡の御霊を慰めるために」などの説で建てた「永福寺(読み方:ようふくじ)」という中尊寺と毛越寺を足した寺院&浄土庭園があったそうです。その建物が二階建ての立派な建物だったことから二階堂と呼ばれていたそうです…消失して跡地しかないらしいのですが。

私、平泉隣市の出身なので「跡地を見れば何か感じるものがあるかな?」と思い、行くことにしました。

というわけで今回は、賢治さんの関係と言われると「?」ですが、岩手には関係ありますよ!

JR鎌倉駅

自販機で湘南デザインといいつつ、ほぼほぼ鎌倉デザインのコーラのボトルを見つけて、写真を撮っていたら駅っぽいものを取り忘れていました;鎌倉駅ホームです。

段葛(だんかずら)

JR鎌倉駅から若宮大路へ、二の鳥居から鶴岡八幡宮正面です。お見事!道路の真ん中を区切るように段葛という参道が整備されています。振り返ると三の鳥居と由比ガ浜、横切る江ノ電が見えます。

段葛がなんのために作られたのかが書かれています。頼朝が夫人の政子の安産祈願で造ったものだったんですね。政子の父まで運搬に協力、一族総出の一大事業です。これだけ出産を一大事として扱う一族だっただけに、4代の妻・竹御所(頼朝孫)の出産で母子とも死亡、頼朝の直系の血が絶えた時は悲劇だったことでしょう。

11月の鶴岡八幡宮、平日も七五三と修学旅行、行楽のマダムと着物女子で大人気です。先月来た時に美味しかった串焼き牛タンの屋台も引き続き出店中。

…(。´・ω・)ん?斜め後方の行列、もしや…

開店直後だったらしく、クルミッ子 の鎌倉紅谷八幡宮前本店限定「petit paquet(プティ・パケ)」も4店舗限定「クルミッ子 10個入(缶)」のカンカン在庫アリの状況に遭遇。まぢですか…歩き回りは今始まったばかりなのに荷物増やしますか…やむをえません、増やしますか。まさかの「観光客が少ない鎌倉のエリア」を回る日に、手にはクルミッ子の紙袋(^^ゞ

鶴岡八幡宮前に戻って右折すると、趣のあるお店の並ぶ通り。これを道なりに直進して左にカーブします。

ファミリーマート鎌倉雪ノ下店を過ぎた次、花屋さんの手前で左折します。

景色は住宅街ですが、町名の「大蔵」に政所を感じます。この辺り、すでに旧源頼朝邸(=鎌倉幕府政所)の敷地に入っております。ここで右に曲がって石畳を進みます。

鎌倉幕府跡地

間もなく行きあたる小学校の敷地の角に、ここに幕府があったことを示す石碑があります。

鎌倉幕府跡地であるこちらの小学校は史跡委員があって研究しているようで、調べた成果や解説が模造紙で貼られています。非常にわかりやすく書かれていて、これを読むと周辺ガイドは不要な感じですよ(笑)

1180年ここに源頼朝のが邸宅を造り、その後は邸宅が政庁になりました。ここ、鎌倉幕府の中心です。

さて、このわかりやすい解説を前に、わかりにくい話題を持ち出します。鎌倉幕府・将軍は何代までいたか知ってますか?

鎌倉幕府は9代目までいた

初代 源頼朝(みなもとよりとも) 信心深くて高貴な血筋の人。
2代 源頼家(みなもとよりいえ) 政子が産んだ頼朝の息子。
3代 源実朝(みなもとさねとも) 政子が産んだ頼朝の息子。
4代 藤原頼経(ふじわらよりつね) 頼朝妹が摂関家に嫁いで産んだひ孫。
5代 藤原頼嗣(ふじわらよりつぐ) 藤原頼経の息子。
6代 宗尊親王(むねたかしんのう) 頼朝妹が摂関家に嫁いで産んだひ孫の娘が嫁いだ皇族。
7代 惟康親王(これやすしんのう) 宗尊親王の息子。
8代 久明親王(ひさあきらしんのう) 惟康親王の娘が嫁いだ皇族。
9代 守邦親王(もりくにしんのう) 久明親王の息子。 

頼朝の直系は3代までですが、実は鎌倉幕府は9代まで続いています。4代は藤原家に嫁いだ頼朝の妹のひ孫を迎え、政子が後見になって頼家の娘と婚姻させて血を繋ごうとして失敗。その後は後嵯峨天皇の介入があって複雑化し、最後は幕府でありながら親王同士の争いで終わっています。

そして住居兼政所も、4代から転居しています…政庁の移動なので、近所とはいえ遷都です。4代以降の幕府の場所は、鶴岡八幡宮前。先ほどクルミッ子を購入していた店から鎌倉雪ノ下郵便局のあたりです。

昨年いただいた鎌倉雪ノ下郵便局の風景印。鶴岡八幡宮と流鏑馬です。

小学校の周囲の壁には、これから向かう永福寺跡や鎌倉宮についてもありました。「平泉をまねて」は、頼朝のお膝元なのに謙虚な表現だなぁ…と染み入ります。永福寺跡は泥と石しかないんですね…平泉も、ほとんどの遺跡が石と水たまりと草だから一緒ですね。

こちらの素敵な郵便受け、警備員の方に伺ったところ、児童たちの作ったフリーペーパーが入っているときは貰っていっていいそうなのです。

残念ながら、今日は入っていませんでした。英語でも書いてあるから、外国人観光客に向けても設置されてるのかな?

右手に小学校を見ながら直進すると、正面に頼朝の墓、その手前に元西門の位置に白幡神社と公園があります。ここ、先ほどの小学生の解説の他、周囲を通る人がみんな頼朝に詳しい(笑)政子が押しかけ女房で祝言前夜に駆け落ちしたとか、頼朝が落馬で死んだとかw整形外科の待合室、芸能人ネタのように話が飛び交ってます。何も調べずに観光に来るなら、鶴岡八幡よりこっちに来たほうが一足飛びに鎌倉事情に詳しくなりますよ。

こちらはもともと、頼朝が髻(もとどり。ロン毛をまとめて束ねたマゲ。)にこっそり刺してた観音像を祀ったお堂があった場所。頼朝の死後はここに墓が造られたと。意外だったのが、こちらのお墓を整備したのは薩摩藩。薩摩の島津氏が頼朝の隠し子の子孫だったという繋がりのようです。

西御門から東御門まで、周囲の源家の噂話を聞きながらあるくと、荏柄天神社という古い神社に着きます。

源頼朝には鬼門を守護する神社として崇められていたそうなのですが、こちらの神社、起源は雷雨とともに天神様(菅原道真)の姿絵が降臨したのをお祀りしたとのこと。

降臨した場所には銀杏が植えられました。

紅葉にはちょっと早かった。

神社、続きます。鎌倉宮という名称で最初はピンとこなかったのですが、なんとこちらの神様は鎌倉幕府を滅ぼした護良親王(もりながしんのう)でした。同じ通り沿いに、鎌倉幕府の最初と最後の重要人物が並んでいて驚きます。後嵯峨天皇の子孫同士で戦う複雑な状態。

境内のあちこちにある獅子頭にほっこりします。護良親王が髻(もとどり。ロン毛をまとめて束ねたマゲ。)に刺していたものが獅子頭…って、さっきも髻に刺した観音像の話ありましたね。当時のブームでしょうか?武将が髻に挟んだものコレクションとか面白そうです。

私も1個買って帰ろう…挟めるほどの髻は結えませんが。当時、髻を切られるのは自害するほどの恥辱だったそうなので、それもまた時代の感覚差。

こちらも紅葉はこれから。12月10日頃が見頃だそうです。護良親王の幽閉された牢やお墓も気になりますが、本日は永福寺跡に向かいます。

地図上鎌倉宮に隣接してるようにも見えたのですが、ぐるり回ります。

入口。なんか…何もない予感がビシビシしてきますが、泥と石だけを覚悟してるので進みます。

あれ?看板を見ると、想像しているよりは泥と石だけじゃないかも!

森の小径レベルを分け入ります。ここ10日以上雨降ってないから普通に歩けますが、もしかして雨の翌日はこの道ドロドロなのかな;

永福寺跡

あぁっ!!想像してたよりかはナニカある!!ナニカはあるほうの廃墟(当社比)です。

しかも資料も無料配布!ありがとう鎌倉市!!

永福寺跡で配布されていた資料に、略年表として記載されていた内容が興味深いです。

略年表写真

永福寺略年表

  • 1189年7月19日 頼朝(初代)、奥州藤原氏と戦うために鎌倉を出発する。
  • 1189年12月9日 頼朝、奥州平泉で見た諸堂に感激し、永福寺建立を決める。
  • 1191年2月15日 頼朝、永福寺を建てる場所を決めるため、大倉周辺を探す。
  • 1192年1月21日 頼朝、二階堂建設現場で土工事を見る。
  • 1192年8月27日 頼朝、庭造りの専門家、静玄を京都から招き、庭石の配置について相談する。
  • 1192年9月11日 静玄、庭の池に石をならべ、頼朝はこの様子を見学する。
  • 1192年10月29日 二階堂の扉と仏背後の壁画が完成する。奥州毛越寺の金堂の壁画を模す。
  • 1192年11月25日 二階堂完成、導師は三井寺の公顕。
  • 1193年11月27日 阿弥陀堂完成、導師は前権僧正真円。
  • 1194年12月26日 新造薬師堂完成。導師は前権僧正勝賢。
  • 1199年1月13日 頼朝、53才で没する。
  • 1199年9月23日 頼家(2代)、永福寺で蹴鞠を行う。
  • 1200年2月29日 頼家、釣殿で遊ぶ
  • 1211年4月29日 実朝(3代)、時鳥の声を聞くために訪れるが聞けずに空しく帰る。
  • 1214年3月9日 実朝、永福寺で桜の花見
  • 1217年12月25日 実朝、永福寺僧坊で終夜歌会を行う。
  • 1229年3月15日 頼経(4代)、花見
  • 1229年10月26日 頼経、蹴鞠歌会を行う。
  • 1232年11月29日 頼経、雪見、釣殿で和歌会を行う。
  • 1245年10月12日 頼経、如法経を永福寺奥山に納める。
  • 1247年6月5日 三浦の乱、三浦光村、永福寺惣門の内側に陣をかまえる。
  • 1251年3月10日 頼嗣(5代)、永福寺で花見
  • 1260年2月18日 宗尊親王(6代)、桜の花を見る
  • 1280年10月28日 鎌倉大火で、二階堂消失。
  • 1310年11月6日 浜辺の火の手で二階堂、大門、鐘楼焼け落ちる。
  • 1333年5月 北条一族滅亡後、千寿王(足利義詮)が別当坊に滞在。
  • 1405年12月17日 永福寺炎上する。

蹴鞠・酒宴・花見・雪見・歌会…etc

鎮魂…?いや、思いっきり遊んでますよね?生きてる時代の違いによる感覚差かもしれませんが「裏山でピクニックしてこよーぜぃ!」に見えます…よ?ともあれ、バチが当たったからか時代が変わったからか、二度の火災で焼失して再建されても三度目は再建されずに今日に至るわけです。

動画中、池を挟んだ向かい側が経塚と書かれています。

経塚。経埋ムベキ山。

経筒の中にお経を入れて山に埋めることを埋経といいます。仏の教えが絶えた後の世に仏法を伝えるための仏教タイムカプセルです。

配布資料中面の経筒の写真を見て、ピーンときたのは通称 「雨ニモマケズ手帳」の152頁。

岩手埋経計画。岩手の山の名前が列記されています。この中で、束稲山(たばしねさん)が平泉町と東山町の間の山です。賢治さんと平泉と今日の散歩がちょっと繋がりましたw

岩手生活者は基本的に自動車移動なのですが、東山町から国道4号線沿いに出るときに、水沢ルート・平泉ルート・一関ルートの3つがあります。平泉ルートが束稲山越えになるので雪山はキツイなぁ…というのと、他の車の往来が無いのとで事故の時に助けてもらうの厳しいだろうなぁ…などと思って走行していました。そんな人気の無い山中の走行中、ふと頭をよぎっていたのが「賢治さん、結局ここに経筒埋めたのかな?」だったのです。広い山中、「埋めましたよ」って言われても「じゃ、探しますか」とはならないので探す気も起きませんが、いつか山が崩れて出てきたりすれば「それ、賢治さんのですよ」と、なるかもしれない…というお話です。

ちなみに、基本的に水沢ルート利用者だったのですが、帰りに「熊が出ました。〇〇地区 ○○さん畑」という町内放送が流れると、熊に遭遇したくなければ通勤ルートを変える…という状況だったのです。

二階堂

ここが中央の二階堂。場所と大きさはわかりますが、これだけでどんな建物だったかを想像するのは厳しいですね。

庭園をぐるり歩きながら、周囲が紅葉したらどんなにか綺麗だろう…というのは容易に想像がつきます。シーズン、これからですね。

あぁっ!復元図の看板!!

立派ですねぇ…奥に遣水(庭園の水の引き込み)があるのを見て平泉の毛越寺を思い出しました。着物着て和歌読んで笹船に乗せて流すイベントあったなぁ…。

AR!あるんだ!!たしかにここあったら面白いと思ってました。

がーん…

悲しいですが、イメージ画像で気分だけ味わいます。柱、朱色だったんですね。

復元させたらすごいだろうなぁ…でも、ここ復元させちゃったら、このエリアも観光客が押し寄せて、駅前と同じ状態になるんだろうなぁ…ぐぅぅ…ここまでノンストップで2時間半。お腹も空いたので、鎌倉駅前に戻ります。

おまけ

2ヵ月ぶりに篝のそば。冷やしメニューが無くなっていることに、季節の移ろいを感じます。

季節と言えば、冬だけのお楽しみジンジャーブレットラテが始まったということで、スタバに寄ります。駅の反対に回って鎌倉市役所前。

初・スターバックスコーヒー鎌倉御成町店。

カップもクリスマス仕様になっておりました。

こちらの店舗、中庭にプールがあるという不思議な景色です。ちなみに庭に降りれません。一息ついたら帰ります。

鎌倉時代の中心、政庁跡地や平泉風浄土庭園を軸に神社を巡る散策になりました。12月前半が紅葉シーズンになります。今からがオススメの時期ですね~。

と、これだけ歩き回りましたが、「petit paquet(プティ・パケ)」は無傷で持ち帰りに成功。撮影した後、ぽりぽりいただきました。上段が甘くサクッほろりとしたクッキーがココアで変化をつけて2種。中段が甘さ控えめで薄くしっかりした歯ごたえのクッキーが和のテイストで変化をつけて3種。下段がチーズで塩味の利いた甘くないパイ&クッキーが。縦ラインの甘味から塩味の変化、段内での味のバリエーションの変化が物語を感じて面白いと思いました。

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