賢治、大田区でチェロを3日習う

NAGINOTE de preview

ナギノートでプレビュー

今回、跡地が一般住宅な上に、周辺も住宅街だったので写真少な目・文字多めです。

「東京にチェロを習いに行った。」「3日チェロを習った。」

賢治さん、チェロを東京に3日間習いに行っています。このエピソードを初めて聞いた時は、耳を疑ったのです。楽器をたった3日習っただけで何になるのだろうか?と。けれど、このエピソードと強烈に結びつく作品があります。

セロ弾きのゴーシュ

数多い宮沢賢治作品の中で、生前未発表で、しかし完成している作品『セロ弾きのゴーシュ』。賢治さん本人がセロ(チェロ)を持っていて、しかも東京までチェロを習いに行っているというのがこの作品との強い関連を感じます。

たった3日チェロを習う体験が名作を生み出す…という見方でも私は気になりますが、なぜチェロ?なぜ東京??と、そもそも疑問だらけのエピソードです。

大津三郎さんとその家のあった場所を巡って、何か掴めないかなぁ?というのが今回の趣旨です。

1926年12月3~29日
賢治30歳、7度目の上京

『校本宮澤賢治全集第十三巻』校異を筆頭に大津三郎にチェロを習ったのは「大正15年」と「昭和2年」の説が書かれています。ピンと来ないかもしれませんが、大正15年は12月25日に大正天皇が崩御して昭和元年になるので、「大正15年」か「昭和2年」か?というのは「昭和元年か昭和2年か?」ということなのです。この件、私に断定する素材があるわけではないのですが、大正15年(昭和元年)にタイプとオルガンとエスペラントを習って、芝居と歌舞伎見て、高村光太郎と手塚武と聚楽で食事して…という費用を父親に出してもらっているわけですが、賢治さんにとっては生涯をかけての学びの時間でも、賢治パパから見れば家業の役にも立たない豪遊でしょうから、この1年後にもう一度上京は無理じゃないかと思うのです。とはいえ、1923年は弟の元に原稿を置きにだけ上京してるので、ぷらっと上京してしまう可能性も否定できないんでしょうね。
(私、明日は高村光太郎宅跡に行ってみようと思います。)

1926年の3月末に花巻農学校を退職して下根子で独居生活(羅須地人協会)を始めています。1928年8月までこの生活が続くので、どちらの時期でも割と時間には自由な独居生活の時代でした。

大津三郎宅の探し方

史跡になっていない個人宅を調べるときの手順です。個人とはいっても、一般人ではなく有名人の場合ですのであしからず。Googleで確信ある情報が出てこなかった時の探し方です。

まずは、大田区の人であることまでは検索で出てくるので、大田区の図書館に向かいます。レファレンスで「大津三郎について調べています」と伝えると、地元図書館は郷土資料が充実しているので、あとは資料を読み込む作業になります。

『大田区ゆかりの人々』

時代別に大田区の有名人の概要がまとめられている書籍が出てきました。

住所まで掲載されていて、一足飛びに答えに至るありがたい資料です。…五十音順なので同じページに「大塚寧々」の文字も!

「宮澤賢治にチェロ教えた人」と説明されてしまうと、あれ?今やこっちが有名??という不思議な気持ちがします。なにはともあれ、そう言っていただくと目的地としては間違いない感じがしてきます。

『地図でみる大田区(3)』

1926年のこの界隈の地図で「調布千鳥町649」を調べます。なぜかといいますと、いまは平成の大合併や、地主の世代交代で番地名が変わっていることが多く、資料の現在住所でも既に古い可能性があるからです。

右下の黄色く塗ったエリアが番地が連番になっているのですが、649は駅前の飛び地です。649の上下の2本の線が何らかの段差を示しております。

当時、千鳥町駅は「慶大グランド前」という名称でした。乗り継ぎはともかくとして、駅からは徒歩5分圏内のようです。
長くなるので、賢治さんが宿泊していた神田錦町の上州屋からここまでの乗り継ぎの件は、また別の機会に検証したいとおもいます。

『宮澤賢治研究叢書2賢治地理』

賢治さんゆかりの地はこれを見ればわかる!という書籍です。

大津三郎宅は利根川宅になったと記載されており、地図の場所とも一致しています。

しかし今では「利根川宅」もありません。ここからは同じ位置を『ゼンリン住宅地図』やGoogle mapで確認します。
大津三郎宅があった土地は、現在8軒の住宅に分かれていることがわかりました。

住宅8軒分の敷地・大津邸

なんだかとても広い家だったことが既に想定されます。

それでは現地へ行ってみましょう

千鳥町駅へは蒲田駅から東急池上線に乗り換えます。

あ!のるるん♪のるるんがこっちを見ていて可愛いです。

池上線の乗車初体験です。

乗車6分、降りたらすぐ目の前に改札です。

線路を渡るみたいですね。左下に千鳥町駅前郵便局がありますね…風景印があるか聞いてみましょう。
あ!!
3つ目の曲がり角、突き当りに目的地が見えています。

先に郵便局に風景印の有無を聞きに行きましたが、ありませんでした…
風景印が無いと言われてしまうと、+αのご近所散策観光のテンションがカクッ…。

さて、突き当り。

『新潮日本文学アルバム12 宮沢賢治』P69 より 大津三郎邸

ぐるり見渡す、この敷地に大津三郎邸が建っていました。

1本隣の道から見ると、急な坂と段差に囲まれた地形がわかります。
千鳥町駅に戻ります。

大津三郎邸跡地の目の前の細い通りも、千鳥駅まで一直線。車が入ってこない歩いて快適な小道です。

道のわきに小泉次太夫の生家という案内板が。大田区としては小泉次太夫推し?(誰だろう?)

あっという間に駅に戻ってきました。徒歩5分、走ると3分?という近さです。

現地からは以上です。

賢治、1926年12月3~29日の生活サイクル

毎日図書館で午後2時まで勉強、その後にタイピスト学校、新交響楽団(現NHK交響楽団)練習所でオルガンの練習、さらにエスペラント語の個人教授、夜は歌舞伎や演劇を見たり下宿で予習復習。この日程の中で、3日間のチェロのレッスンは早朝6時半~8時半の2時間で行われます。

チェロ3日間のレッスンの内容

  • 第一日:楽器の部分名称、各弦の音名、調子の合わせ方、ボーイング
  • 第二日:ボーイングと音階
  • 第三日:ウェルナー教則本第一巻のやさしいもの何曲かを大津三郎が説明したり弾いて聞かせた。

三日目の練習のあとでお別れの茶話会をしたときに「どうしてこんな無理なことを思い立ったのか?」と尋ねたら、「エスペラントの詩を書きたいので、朗誦伴奏にと思ってオルガンを自習しましたが、どうもオルガンよりセロの方がよいように思いますので……」(大津三郎「私の生徒 宮沢賢治~三日間セロを教えた話~)

チェロが弾けるようになるとは?

私が初めて『セロ弾きのゴーシュ』を読んだときは、3日でいきなり上手くなるわけがない!こんなのファンタジーだ!と思ったのです。
よくよく考えてみれば、ゴーシュは楽団に所属しているので…全く素人というわけではありませんよね。演奏技術はあったはず。「下手」と言われる意味は、演奏技術の話ではなかったのです。
演奏の上手い下手は、自分のテクニック自慢の演奏ではなく、聴く人に向き合うことによる別の力…そこでしょうか。
「3日間」という感覚の参考になればですが…私は、子どもの頃にピアノを習っていました。譜面をさらうだけのジャッジしか出来ない事態から抜け出ることなく終わってしまうのですが、一応の経験です。ドレミの聞き分けができます。そして、ギターも音楽授業でやった経験があります。
賢治研究を始めてからチェロを東京で3日習ったエピソードを知った時、弟にふと、「チェロって3日で弾けるの?」と質問したのです。弟は町民の楽団でチェロを演奏していました。「弾いてみる?ピアノもギターもやったんなら、『きらきら星』くらいはすぐに弾けるだろ。」と、調弦済みのチェロを借りて、開放弦の音階とボーイングのなんとなくを説明されつつ、30分とたたずに『きらきら星』は弾けてしまったのです。ナルホド。
この経験から分かったのは、部分名称などはわからなくても、簡単な曲を弾くことはできるのです。
しかし、賢治さんが3日間、名称や音階やボーイングについて時間をかけていたのは、目指すゴールが違っていたからなのだと思い当たりました。プロとして楽団で弾く奏者の目線や感覚を得るための、物語主人公の感覚を掴むためではないでしょうか。そういえば、最初の上京の目的、「オルガン」も自己流でやっていたものに間違いが無いかの確認でのレッスン受講でした。

物語を作るとき、作品という形を作ることが出来れば、想いや作品の尊さを他人と共有できますが、作る過程は本人にとっては追い立てられる切実な状況にあっても他人と全く共有できませんよね。賢治さんの苦しい切実さと周囲からの見え方を思うと苦しくなります。周囲から「ならやめれば?」と思うことをやめられないのが物語を作る人ですしね…。

私の家の朝食を一緒にたべて、同じ電車で有楽町まで出て別れる

3日間とはいえ、早朝からレッスンし朝食を共にし、途中まで一緒に通勤していた…印象に残る人物だったことでしょう。
現地を見た後に、改めて『大津三郎「私の生徒 宮沢賢治~三日間セロを教えた話~」』を読むとなるほどと思うことも多くありました。横田庄一郎著『チェロと宮沢賢治」』に引用されていた『大津三郎「私の生徒 宮沢賢治~三日間セロを教えた話~」』です。
4世紀半経ってから書かれた大津三郎の回想の手記が、情報のほぼすべてなのだと感じる内容です。

『大津三郎「私の生徒 宮沢賢治~三日間セロを教えた話~』

※旧漢字はそのまま。原文誤字は訂正、促音(つまる音)は小さく表記変更しております。

 それは大正十五年の秋か、翌昭和二年の春浅い頃だったが、私の記憶ははっきりしない。
 数寄屋橋ビルの塚本氏が現在のビルの位置に木造建物で東京コンサーバトリーを経営していた。近衛さんを中心に新交響楽団を結成した私達が練習場に困って居たのを塚本氏の好意で、そのコンサーバトリーを練習場に借りていた時のことである。
 ある日帰り際に塚本氏に呼びとめられて、『三日間でセロの手ほどきをして貰いたいと云う人が来ているが、どの先生もとても出来ない相談だと云って、とりあってくれない。岩手県の農学校の先生とかで、とても真面目そうな青年ですがね。無理なことだと云っても中々熱心で、しまいには楽器の持ち方だけでもよいと云うのですよ。何とか三日間だけ見てあげて下さいよ。』と口説かれた。
 当時私は、新響でバストロムボーンを担当していて、図書係を兼務した上、トロムボーンの休みの曲にはセロの末席に出ると云う多忙さで、住居はと云えば、荏原郡調布村字嶺(現大田区千鳥町)と云って、当時は大層不便な所だったので一層条件が悪かった。
 塚本氏の熱心さに負けて遂に口説落された私が紹介されたのは三十歳位の五分刈頭で薄茶色の背広の青年で、塚本氏が『やっと承知して貰いました大津先生です』と云うと『宮澤と申します、大層無理なことをお願い致しまして……』と柔和そうな微笑をする。『どうも見当もつかない事ですがね、やって見ましょう』と微苦笑で答えて、扨(さて)、二人の相談で出来上ったレッスンの予定は、毎朝六時半から八時半迄の二時間づつ計六時間と云う型破りであった。(ナギノ思うに、仮に昭和2年にチェロのレッスンだけで上京したのなら、こんなに強行日程にしなくてもいいですよね。前年の予定詰め詰めの12月の上京期間だからこそのこの時間かと…。)
 神田あたりに宿をとっていた彼は、約束通りの時間に荏原郡調布村まで来るのは中仲の努力だったようだが、三日共遅刻せずにやって来た。八時半に練習を終わって私の家の朝食を一緒にたべて、同じ電車で有楽町まで出て別れる……これが三日つずいた。第一日には楽器の部分名称、各弦の音名、調子の合せ方、ボーイングと、第二日はボーイングと音階、第三日目にはウェルナー教則本第一巻の易しいもの何曲かを、説明したり奏して聞かせたりして、帰宅してからの自習の目やすにした。ずい分と乱暴な教え方だが、三日と限っての授業では外に良い思案も出なかった。
 三日目には、それでも三十分早くやめてたった三日間の師弟ではあったが、お別れの茶話会をやった。その時初めて、どうしてこんな無理なことを思い立ったか、と訊ねたら『エスペラントの詩を書きたいので、朗誦伴奏にと思ってオルガンを自習しましたが、どうもオルガンよりもセロの方がよいように思いますので……』とのことだった。
 『詩をお書きですか、私も詩は大好きで、こんなものを書いたこともあります』と私が書架から取り出したのは、大正五、六年の『海軍』と云う画報の合本で、それには軍楽隊員時代の拙作が毎月一篇ずつ載っていたのである。
 今日の名声を持った宮沢賢治だったら、いくら人見知りをしない私でも、まさか自作の詩らしいものを見せる度胸は持たなかっただろうが、私はこの時詩人としての彼を全く知らなかったのだ。
 次々に読んで行った彼は『先生の詩の先生はどなたですか』と云う『別に先生はありません泣菫や夜雨が大好きな時代もありましたが、今では尾崎喜八さんのものが大好きです』と答えると、彼は小首をかしげ乍(なが)ら『大正五年頃にこんな書き方をした人は居ないと思っていましたが……』と云って私に示した一篇は――古い日記から――と傍見出しをつけた舊作で南太平洋上の元旦をうたった次のようなものであった。

   冴た時鐘で目がさめた―午前四時―
   釣床の中で耳をすますと
   舷側で濤がおどり乍ら
   お正月お正月とさんざめく

 士官次室から陽気な話声がきこえる
 今、艦橋から降りたばかりの〇〇中尉が
 除夜の鐘ならぬ正午の八點鐘をうって
 艦内一の果報者と羨まれて居る
 (絶世の美女を女房にもてるげな)
              (中略)
 風涼しい上甲板の天幕の下で
 天皇陛下の万歳を三唱し
 大きな茶碗で乾杯したあとは
 金盥にもられたぶっかき氷が一等のご馳走だ
 南緯三十三度のお正月はとにかくに勝手が違う
 ――明日は Nowzealand の島山が見える筈――
 
 と云ったので、全くマドロスの手すさびにすぎないものだが、篇中の――と( )を指して、大正五六年にはまだ使われて居なかったように思う、と云うのであった。
 当時、私の家は兩隣りへ二三町もある一軒家で割合に廣い庭には一本のえにしだと何か二三本植って居たのに対して、彼はしきりに花壇の設計を口授してくれた。そして、えにしだの花は黄色ばかりと思って居た私は、紅色の花もあることをその時彼から教わったのだ。
 ウエルナー教則本の第一と信時先生編のセロ名曲集一巻を進呈して別れたのだったが数日して彼から届いた小包には、「注文の多い料理店」と渋い装禎の「春と修羅」第一集が入って居て、扉には
献大津三郎先生      宮沢賢治
 と、大きな几帳面な字で記してあった。
 春と修羅を読んで行くうちに、私の生徒が誠に尊敬すべき詩才の持主であることを感ぜずには居られなかった。
 妹さんの臨終を書いた「永訣の朝」などは泪なしには読めず(あめゆじゆとてちてけんじや)と云う方言がいつまでも脳裏を離れない。

1952(昭和27)年、雑誌「音楽の友」1月号 大津散浪(大津三郎ペンネーム)

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